フィジーが教えてくれた、私の幸せ発見方法

受験や就活など、大きな人生選択を迫られているのに、何をしたいのかわからない、どんな仕事に自分は就きたいのかがわからない、そんなお悩みはありませんか?

最近大学を卒業した私は、フィジーでの留学を通じて、ホスピタリティー×観光、という自分の興味分野を見つけました。

その分野を学びに日本を飛び出してアメリカに留学し、これから社会に出ようとしています。枠の外に勇気を出して踏み出してみたからこそ、自分のやりたいことを見つけることができました。

そんな私も、元々は英語圏にあこがれているだけで、一歩を踏み出せない高校生でした。

この記事を読み終えたとき、1人でも多くの方が自分のやりたいことを発見できたら良いな、という思いを込めて、自分の経験や学びを書かせていただきました。

目次

フィジーが教えてくれた、“人との繋がり”が私の幸せ

フィジーでの留学を通じて、私は何が私を幸せにしてくれるかを見つけました。それは“人”でした。人、そのものが私を幸せにするわけではなく、“人との関わり”が私を幸せにしてくれるんだ、と学びました。

元々の私は、幸せ=お金と考えていました。確かにお金を持っていることが幸せだと思う人は沢山いると思います。そして、その考え方は決して間違っているわけではありません。

全世界の人が、それぞれ違った意見を幸せに対して持っていて、“幸せ”に正解はありません。私の場合、人との繋がりが幸せだった、というだけです。

私にとっての幸せが、人との繋がりということに気づいたのは、フィジーで1日1フィジードル(約60円)で生活する村にボランティアに行った際です。その村の子供達は、生活に必要最低限なものしか持っていませんでした。

もちろんおもちゃなんて持っていませんでした。それなのに、彼らの目はとても輝いていて、はち切れそうな笑顔で他の子供達と遊ぶ光景が、今でも目に焼きついています。

お金がなくても、彼らがすごく幸せに見えたのです。海外に行けるという時点で、金銭面は彼らより恵まれているはずなのに、なぜか私の方が不幸に感じました。

なぜ私がそう感じたかというと、彼らは、おもちゃ以上に価値のあるものを持っていたからです。それは、村人との繋がりでした。

ボランティアが終わって、フィジー全体を考えた時、フィジーは「人と人との繋がりが強い国」だと気が付きました。

ただ英語大好き、平凡高校生がフィジーへ

2017年の1月、当時16歳だった高校2年生の私は、10ヶ月間親元を離れ、1人フィジーへと旅立ちました。自身にとって初めて長期間親元から離れるので、不安が混じりながら、長年の夢であった留学を目前にし、楽しみにしていました。

渡航当日、昼食のうどんでさえ全く喉を通らない程に緊張していました。親元を長期離れるという事実に不安を抱いていたのは確かですが、それ以上に自身が外国の地で果たしてやっていけるのか、私の英語力は留学に十分なのか、の様な生活面の不安の方が断然大きかったです。

私が搭乗していた飛行機は無事乗り換え場所の韓国へと飛び、私の人生初めての留学生活の幕が開きました。

うどんさえ喉を通らないほど緊張しやすい私が、留学を決意したのには、大きく2つの理由があります。

アメリカやカナダ、“英語圏”への強い憧れ

1つ目は、幼少期から抱いていた留学への“憧れ”です。2歳の時から英会話を学んでおり、毎日英語に何かと触れている環境で育ちました。なので留学を視野に入れることは、私にとって自然なことでした。

アメリカやカナダの英語圏に強い憧れを持っていた私ですが、予算の関係上、英語圏への高校留学は断念し、日本の高校を卒業する流れに一旦はなりました。そんな時、母がフィジー留学をみつけ私もフィジーという国の存在を知ることになりました。

最初はアメリカやカナダではない国への留学に乗り気ではありませんでした。しかし“英語圏留学”というステータスを手に入れたかった私は、“日本の高校よりはマシか”、程度の気持ちで、フィジー留学を決意しました。

人間関係の拗れが原因で、殻に閉じこもっていた私

2つ目の理由は、人間関係です。日本の高校在学中、私はいじめに遭っていました。毎日の通学が辛くて、退学を視野に入れました。しかし、日本の社会的風潮上、退学というのはあまりいい響きではありません。

結局はいじめも落ち着き進級しましたが、この学校にはいじめというものが存在し、それに対して認知している教師が何もしない、その環境に嫌々としながらも通学していました。

そんな環境に身を置いていたせいか、自然と殻に閉篭もるようになっていきました。“どうせ素の自分を出したところで、またみんなに仲間外れにされる”と、心のどこかに無意識に思っている自分がいました。

そんな環境にいる時、母親が偶然フィジー留学を見つけ、残りの高校生活をフィジーで過ごし、フィジーで卒業するという道を選択しました。

この選択は、私にとって大きな人生選択でしたし、決して計画通りだったわけでもありませんが、選択して正解だったと一生思えるものとなりました。

名前も知らなかった島国で、自分も知らなかった“自分”との出会い

フィジーは、300以上の島々から構成される南国です。南半球に位置する島国なので、私が渡航した1月は、日本は真冬、フィジーは真夏という正反対の季節の国に飛びました。

最初は心細さを紛らわすために、携帯から少し距離を置いてみたり(Wifiを持っていなかったという事もあります笑)、普段なら絶対にしない予習・復習をしてみたりしました。

そんな私も、徐々に新天地に慣れ始め、模索をしながらの日々を段々と楽しめる様になっていきました。

幼少期から英語が身の回りに常にある環境にいながらも、英語で授業を受ける機会がなかった私は、全て英語の授業と格闘しつつも、その中に楽しさを見つけました。

英語での授業の楽しさ、理解した時の達成感が日々大きくなっていき、幼少期から抱いていた留学への“憧れ”が、実現する“目標”へと変わり、高校を卒業する頃には、“英語圏の大学に進学”という、しっかりとした “現実”に変わっていました。

半強制的に、外交的な性格へ

南国にいる人々って、明るい性格のイメージありませんか?フィジーも例外ではありません。

フィジーで出会った大多数の人の性格は、フレンドリーでおおらか、そして底抜けに明るい性格でした。

恥ずかしがり屋で自分の殻に閉じ籠り気味だった私は、彼らの性格に憧れ、そして私もそうなりたいと思う様になりました。

内向的な性格は、過去にいじめられた経験が関係して、もし素を出したらまたいじめられるのではないか、という恐怖心がありました。

しかし、誰であろうとフィジーの人々は”Bula!(こんにちは)”と、大きな笑顔で声を掛けてくれました。最初の方はBulaと恥ずかしがりながらも、反射的に挨拶を返していました。

その状況に身を置く/置かれることによって、自分の殻から徐々に抜け出せるようになって行った私は、人とのつながりに喜びや幸せを覚える様になりました。

笑顔は人に移るって言いますよね?元々この考えには賛成していませんでしたが、フィジーに行って彼らの笑顔を見て自分も笑顔になっている経験をしてから、これは本当なんだなと思う様になりました。

また、海外から来た身の私にも挨拶をしてくれたフィジーの人々に、私はとても“受け入れられている”と、強く感じていました。

歯が一本行方不明のフィジー人であろうと、笑顔で“Bula!”って言ってくれて、満員バスでもさらに詰めて座る場所を作ってくれたフィジー人には、毎日とても受け入れられているな、という気持ちにさせてくれました。

私がフィジーで経験した感情を、他の誰かにも経験してもらいたいと思うようになりました。

フィジーでこのような環境に身を置けたことにすごく感謝をしています。今でも殻に閉じこもりたいという場面はあります。

それでも、自分の殻からすぐに抜け出せる性格は、フィジー留学中に培った大切なスキルの一つです。

フィジーでの経験が専攻決定のヒントに

では、今大学で勉強している専攻に、どのようにフィジーがヒントになったのでしょう。

日本の大学、海外の大学、どちらに進学したとしても、必ず“英語”に関連した勉強をしたいと思っていました。なぜなら、英語が好きで得意ですし、上達できるところまで上達させたかったからです。

しかし、英語を専攻にしたいか、と言われるといまいちといった気持ちでした。英語は好きですが、言語としての歴史やシェイクスピアなどの、英文学には興味がなかったからです。

とはいっても、大学に入ってからは、大学の教育方針で英文学のクラスを取らなくては卒業資格がもらえなかったので、勉強することになったんですけどね笑

観光学との出会い -私なりのホスピタリティーを観光へ-

私が専攻していたのは、観光マネージメント学(Recreation and Tourism Management)で、ビジネス学科に含まれます。

内容としては、マーケティング学に近いのですが、観光がもたらす社会問題や、アメリカの国立公園の勉強などをしました。

観光学科の存在を知る前は、ホスピタリティー学を専攻する予定でした。

人を手助けすることがもともと好きだったので、ホスピタリティー精神に磨きをかけて、ホスピタリティー業界で働こうと思いました。そして、誰かのために働いて、誰かを幸せにしたいと思っていました。

調べていくうちに、ホスピタリティー学は確かにおもてなし精神を勉強するけど、どちらかといえばホテル、レストランでのマナーを学ぶ(これだけではないです)という学科で、確かに勉強はしたいけど、私の中でなんとなく違和感がありました。

それでもとりあえずはホスピタリティーを専攻しよう、という気持ちでいました。

観光とホスピタリティーを組み合わせたものを職にしたい、と思ったのは何の変哲も無い、フィジー留学中の1日でした。

なんとなく私は、ニューヨークへ旅行した時の写真を見ていました。楽しかったな、あのツアーガイドさんよかったな、と思って写真を見ていた時でした。

”私は旅行が好き、英語も大好き、世界中の人と出会いたい、人を幸せにしたい”と思っていた私には、観光に関わりながら誰かを幸せにできる、ツアーガイドのような仕事があっていると感じました。

ツアーガイドのような仕事でも、ホスピタリティー精神は必須です。しかし私はフィジーやアルバイト経験で培ったホスピタリティー精神を観光系の仕事で発揮するには、もっと観光学の知識が必要と感じたので、私は観光マネジメント学を大学での専攻にしました。

その後は、フィジーで培ったホスピタリティー精神を使って、観光に生かしたいという新たな目標を掲げ、日々切磋琢磨しています。

英語圏への“憧れ”から卒業

生まれてからフィジー留学に行くまで、留学は英語圏ではなければ意味がないと思っていました。なので、留学とはいっても、フィジー留学ではあまり乗り気ではなかったのです。

しかし、フィジーで1年間留学経験ができてよかったですし、今ではフィジーが最初の留学国でよかったなと思ってます。

なぜなら、もし最初からアメリカやカナダなどの英語圏に留学をしていたら自分の中のエゴはそこで満たされ、それ以上に何かを私は得ることはなかったと思うからです。

フィジーに行って、自分にとっての幸せを見つけ、明確な夢を見つけることができました。

フィジー卒業後も海外大学進学をしたいという考えは変わりませんでしたが、別に英語圏でなくてもいい、自分が学びたい学科/プログラムがある大学に進学しようという気持ちになりました。

結果的に、進学したのはアメリカの大学でしたが、留学先大学を決める際は、ニュージーランドやスイス、さらにはフィジーを留学先候補に入れていました。

英語という武器を手段にして、新たな武器を手に入れるために留学をする、という気持ちが生まれたのでした。

Dreams Do* Come True ~フィジーからアメリカへ~

長年の憧れでもあり夢であった英語圏フィジーへの留学を叶え、アメリカの州立4年制大学に留学し、先日卒業いたしました。

卒業式では10年以上の夢であった卒業帽とガウンを着て、ステージに立ち、卒業証書を受け取りました。

そして幸運な事に、卒業後は留学している州の観光省でのインターンシップが決定しています。フィジーで教わった私の幸せの形を、観光を通して、私なりの形で世界に発信していきたいと思います。

*ミニ英語レッスン:動詞の前に、違う動詞をつけることによって、おまけの動詞の後に来る動詞が強調されます!なのでこの場合のDreams Do Come Trueは、夢は“本当に”叶うという、訳になります。

フィジーで教わったホスピタリティーを、社会で実践

フィジーから日本へ帰国後、私は初めてアルバイトをしました。決してアルバイト経験が多い方とは思いませんが、少し独特なアルバイト経験を持っています。

最初のアルバイトはレストランでのウェイトレスで、2つ目のアルバイトはアメリカの大学の日本のキャンパスで、英語の先生のオフィスでアルバイトをしていました。

3つ目のアルバイト先は、アメリカ発の卸売倉庫店でシーズナル従業員として1ヶ月勤務をし、4つ目のアルバイト先は、先日卒業をした大学で、単位などを扱うオフィスでアルバイトをしました。

日本企業、日本にあるアメリカ企業、そしてアメリカ企業での経験を通して、私は相違点を発見しました。

日本企業でもアメリカ企業でも共通した、私のホスピタリティー

日米企業どちらとも、“誰かのことを考えて行動する”点は共通していると思います。

日本企業は“お客様=神様”の風潮が強いですが、アメリカではそれほどでもありません。アメリカのレストランでは、1人の従業員が1つのテーブルを担当し、もし担当者のサービスが良ければ多めのチップを払い、悪ければ少ないチップを払うという、文化の違いがあります。

それでも、注文を取りに来る速さ、飲み物などの細かいことにも気遣いをします。

教育関連のアルバイトでも、それは同じでした。ホワイトボード用のマーカーや、ペンなどが入っている棚を整理する様にお願いされた日がありました。

私は、ペンの入っている箱を少し切って調整し、棚から取り出しやすくしたり、クリップなどを大きさ別に分け、ラベルを貼って一目でどの大きさが分かるようにするなど、小さな気遣いをしました。

1番気遣いに力を入れたのは、某アメリカ倉庫販売店で、シーズナル従業員として、期間限定でアルバイトをした時でした。

従業員もお客様も国際的で、ほぼ毎日1回は英語を話す機会がありました。私は日本人のお客様であろうがなかろうが、誰に対しても最初は“日本語”で話しかけていました。

それには2つの理由があります。1つ目の理由は、ただ単に勤務地が日本だったからです。

もう1つの理由は、もしお客様の見た目が日本人には見えない顔立ちだとしても、日本語が話せないという確証はないからです。

もしかしたら、そのお客様は他言語を第一言語として話したとしても、日本にいるので日本語を話せる、もしくは日本語で話したいかもしれません。

この考え方は、単なる個人の意見の一つとして聞いてください。私は日本人としての誇りを持って、アメリカに留学をしていました。実際に、外見が東アジア人(アメリカで東アジア人というと、大体は日本/中国/韓国を指します)なので、よく中国人と間違われます。東アジア人=中国人という考え方はアメリカでは一般的です。

国籍を間違われることに対し嫌悪感があるわけではありません。私が嫌なのは、どこの出身なのかも聞かずに“勝手に”中国人と決めつけられ、中国語で話しかけられることです。

私は中国語を一切話せないのに、アメリカの典型的な固定概念のおかげで、よく起こります。

正直、毎回中国人と勝手に決めつけられた時は、あえて分かる声の大きさでため息をついたりしています笑。しかし嫌なものは嫌ですし、はっきりと違うと自己主張をしないと、アメリカでは埋まります。

されて嫌なことは、他人にもするなという教育方針で育てられている私は、最初は誰であろうと日本語で話しかけました。

日本語で話しかけて、もしお客様が理解をしていない様な雰囲気を醸し出しているようなら、私は“Do you speak English? (英語を話しますか?)”と質問してから、英語で話しかけるようにしていました。

最初から英語で話しかけないという心遣いは、ホスピタリティーに関連していると私は考えます。なぜなら、先程も述べたように、勝手に決めつけることで、誰かを無意識のうちに傷つけてしまう可能性があるからです。

見た目が違ったとしても、話す言語が違ったとしても、人は皆同じです。

私自身も、日本の外に出て初めて“少数派”の経験をしました。この経験をしたことがあるから、上記のような心遣いを常に忘れないようにしています。

まとめ

幸せの形は、どれだけ多くのものを持っているかではないと教えてくれた、村の子供達。誰に対してでも笑顔を見せてくれる、フィジー人。

人との繋がりが私を幸せにし、そしてその幸せを観光を通じて分け合いたい、という新たな目標を作ってくれた、フィジー留学。

留学と聞くと“英語力”と思う方も多いとは思いますが、人生において大切な何かを学べる機会でもあります。

日本の外に出ることだけが、正解というわけではありません。

毎回同じメニューを頼んでいるのであれば、次回は違うメニューを注文してみる、もしくはいつも通らない道を通ってみる、小さい事から枠の一歩外に出る努力を始めてみましょう。

枠の中に居続けると、選択肢が限られてきます。しかし一歩枠外に出てみる事で、選択肢が広がり、違う視点から物事を見れるようになります。

自分が今何をしたいのかがわからなかったとしても、枠の外に出てみたらすぐ答えが見つかる可能性も無ではありません。

でもその可能性を見つけるには、枠の外に出て、違う世界を見なければなりません。

枠の外に出ることはとても勇気がいることです。しかし、その一歩を踏み出す勇気さえあれば、新しい世界が皆さんの前に待ち構えています。

勇気を持って一歩踏み出し、皆さんがやりたいことを見つけられますように!

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